世阿弥、花を言葉に変えた男
プロローグ 北海の島で、なお筆を執る
老人が、海を見ている。
北の海は、夏でも青く冷たい。波は岩を噛み、しぶきが風に流れて、岸辺の松を白く濡らしている。島の名は佐渡という。京からは、いくつもの峠を越え、舟で荒れた海を渡らねば着かない。流された者の住む島だった。
老人は罪を得て、この島にいた。齢は70を超えている。京には妻がいた。だが、後を継ぐはずだった長男は、もうこの世にいない。芸の地位も、長く仕えた将軍家の庇護も、暮らしの基盤も、すべて奪われていた。手元に残ったものは、ほとんど何もない。
それでも、老人は筆を執った。
紙に向かい、佐渡という島のありさまを書いた。北の海に浮かぶ島ゆえ、波も風も激しいこと。配所に懸かる月のこと。罪人として島に在りながら、嘆くというよりは、どこか澄みきった心で、目に映るものを書きつけていく。のちに『金島書』と呼ばれることになる、小さな謡の書である。
これが、世阿弥(ぜあみ)という男だった。
賤しいと侮られた河原の芸能者の家に生まれ、12歳で時の将軍に見出され、芸の頂に立ち、72歳で島に流された男。だが、この一代記が描こうとするのは、彼の栄光でも、転落でもない。
彼が、たった一つだけ、世界に向かって決定的に変えてしまったことがある。
それまで、芸は語られなかった。猿楽であれ、何であれ、芸は師から弟子へ、身体から身体へ、口移しに伝わるものだった。型も、心得も、舞の美しさの正体も、文字にはされなかった。「家の芸」は秘事であり、書かれることなく、演者の身体とともに生まれ、その死とともに消えていった。そもそも、芸を「考える」ための言葉が、まだ無かったのである。
世阿弥は、それを書いた。
舞台で一夜のうちに咲いて消えるはずの「花」とは何か。人はなぜ、舞に心を動かされるのか。誰も書かなかったそれを、彼は書いた。消えていく身体の芸を、時を超えて残る思想へと変えてしまったのである。賤しい見世物の役者が、自らの芸を、読み、語り、何百年も受け継げる「知」の高みへと引き上げた。日本で——いや世界を見渡しても稀な——最初級の、体系立った芸の理論であった。
彼自身、その書のなかにこう記している。命には終わりがある。だが芸の道には、果てというものがあってはならない、と。
佐渡の波音のなかで、老いた手が紙の上を走る。命の終わりは、もうそう遠くない。だが彼が紙に閉じ込めた言葉は、彼が想像もしなかった長さの時間を、これから旅することになる。
物語は、80年ほど前へ遡る。賤しいと呼ばれた、ひとりの少年から始まる。
第1章 鬼夜叉、将軍に見出される
少年の幼名は、鬼夜叉といった。
鬼の夜叉。おどろおどろしい名である。だが当時、幼い子に荒々しい名をつけるのは、魔を払い、無事に育つことを願う習いでもあった。この子の生まれた家は、大和の国——いまの奈良——を本拠とする、猿楽の一座だった。結崎座(ゆうざきざ)という。父の名を、観阿弥(かんあみ)といった。
猿楽とは、寺社の祭礼で演じられる芸能である。とりわけ物まねを得意とした。鬼に化け、女に化け、老人に化け、狂女に化けて、見物の衆を笑わせ、泣かせ、神事を彩る。だが、それを演じる者たちの身分は、決して高くはなかった。むしろ、世の人々から賤しいと見下される芸能者であった。河原に住まう者、寺社に隷属する者——猿楽の役者は、そういう目で見られていた。
鬼夜叉は、その家に生まれた。生まれたのは貞治2年(1363年)と伝わる。翌年とする説もあって、確かなことは分からない。
春日の神に仕える、賤しき者たち
結崎座は、大和の地に根を張る、四つの猿楽の座のひとつだった。
外山座、坂戸座、円満井座、そして結崎座。これら四つの座は、大和猿楽四座と呼ばれた。いずれも、奈良の興福寺と春日大社という、大和に君臨する寺社に隷属し、その神事と祭礼に芸を奉じる者たちだった。なかでも興福寺の薪猿楽——薪を焚く神事に奉じられる猿楽は、四座が腕を競う、年に一度の晴れの舞台だった。結崎座はのちに観世流となり、外山座は宝生流、坂戸座は金剛流と喜多流、円満井座は金春流の源流となる。今日まで六百年、絶えることなく続く能の流派は、すべて、この大和の四つの座から流れ出ている。
ここに、猿楽の役者という存在の、深い二重性があった。
一方で、彼らは賤しいと見下された。河原に住まう者、定まった田畑を持たぬ者、寺社に隷属する身分の低い者——世の人々は、猿楽の役者をそういう目で見た。だが他方で、彼らは神に仕える者でもあった。春日の神の前で舞い、興福寺の薪の火のもとで芸を奉じ、神と人とのあいだに立つ。賤視と聖性。蔑みと畏れ。猿楽の役者は、その両極のあいだに置かれていたのである。鬼夜叉が背負って生まれたのは、この引き裂かれた身分だった。世の最下層に置かれながら、神に最も近い場所で舞う者。のちにこの少年が、賤しい見世物の芸を神と仏にまで遡る「道」として書き起こすとき、その筆の拠りどころとなったのは、生まれながらに身に帯びていた、この聖性の記憶だったのかもしれない。
父・観阿弥という芸の革新者
少年の最初の師は、父・観阿弥だった。
観阿弥は、ただの座長ではなかった。彼は、大和猿楽が代々得意としてきた物まねの芸に、新しいものを大胆に取り込んだ。田楽の優美な舞。そして当時、南北朝の世に流行していた曲舞(くせまい)という、躍動するリズムを持つ歌舞である。観阿弥は、その曲舞の節を専門の者にわざわざ学び、猿楽の能のなかへ取り込んだ。芸を、一新したのである。
のちに世阿弥が次男・元能(もとよし)に語り、書き留めさせた言葉のなかに、父の芸を回顧した一節がある——亡き父の能は、身分の高い人も低い人も、こぞって褒め称えたものだった、と。
貴人も賤人も、一様に魅了する。それが観阿弥の芸であった。物まねの巧みさは、尋常ではなかったらしい。世阿弥は、父の体格と芸との落差をも語り残した。観阿弥は背が高く大柄だったが、その芸はまるで十二、三歳の少年が演じているように見えた、と。大男が、少女のごとく舞う。物まねという芸が、似せることの極北で何を生むか——少年・鬼夜叉は、それを父の背中で見て育ったのである。
影向の大楠の下で
少年が12歳ほどになった、応安7年(1374年)か、その翌年のことである。父・観阿弥が、京都の新熊野(今熊野)神社で、勧進の猿楽を興行した。勧進とは、寺社の造営などのために行う、いわば奉納の興行である。結崎座が、京の都で舞台に立った。
その舞台が組まれた新熊野神社は、由緒の深い社だった。
平安の末、永暦元年(1160年)、後白河上皇が、紀伊の熊野三山の神を京に勧請して建てた社である。上皇は熊野をことのほか篤く信仰し、生涯に三十数度も遠い熊野へ参詣したと伝わる。その熊野を、自らの御所のかたわらに移したのが、この社だった。創建のとき、紀州の熊野から運ばせた楠を、境内に植えたという。「影向の大楠」と呼ばれるその巨木は、今も樹高20メートルを超え、京都市の天然記念物に指定されている。
「影向」とは、神仏がこの世に姿を現すことをいう。神が降り立つ木の下——そこは、神事と芸能が分かちがたく結ばれた場であった。猿楽はもともと、寺社の祭礼で神に奉じられる芸である。神を楽しませ、神を招く。役者たちは賤しいと見下されながら、同時に、神と人とのあいだに立つ者でもあった。賤視と聖性。その二つが、この大楠の影のなかに同居していた。
応安7年(1374年)、いまの能楽の世界が「日本能楽史の紀元元年」と呼ぶ一日が、この社で訪れる。神の降りる木の下に組まれた舞台で、賤しいと侮られた一座が、武家の頂点に立つ将軍と出会うのである。
その見物に、時の将軍が訪れた。室町幕府の三代将軍、足利義満(あしかがよしみつ)である。当時まだ17歳ほどの、若い将軍だった。
その場の様子を直接記した一次の史料は、ほとんど残っていない。だが、後の事実が雄弁に語っている。義満は、観阿弥の至芸に魅せられた。そして、舞台に立つ美しい少年——鬼夜叉に、深く心を奪われた。以後、義満は生涯にわたって、この親子の、そして観世座の、絶大な後ろ盾となるのである。
賤しいと見下されていた河原の芸が、武家の頂点に立つ将軍の心を射抜いた。観世座の運命を変える、一夜であった。そして少年にとっては、約70年に及ぶ芸の生涯の、まさに出発点だった。12歳の舞台が、すべての始まりだったのである。
美に憑かれた将軍
足利義満という将軍を、抜きにして世阿弥は語れない。
義満は、ただ猿楽を好んだ権力者ではなかった。彼は、武家でありながら、公家の雅をわがものにしようとした、稀有な為政者だった。南北朝の長い動乱を収め、京の北山に絢爛たる山荘を営む。その一画に建てたのが、金箔に覆われた楼閣——のちに金閣と呼ばれる建物である。武家の力、公家の雅、禅の静けさ。義満は、この三つの美を一身に集めようとした。彼を中心とするその文化を、後世は北山文化と呼ぶ。
その義満が、賤しい猿楽に心を奪われた。なぜか。
義満は、あらゆる美を貪欲に集める人だった。連歌も、和歌も、禅も、唐物の美術も。そのなかで、舞台の上に一瞬で立ち現れては消える猿楽の美もまた、彼の心を掴んだ。とりわけ、美しい少年・藤若の舞は、若い将軍を夢中にさせた。権力の頂点に立つ者が、最も賤しいとされる芸の子を、かたわらに置いて愛でる。それは、雅を解する者だけが持つ、身分を超えた審美の眼差しだった。
そして、義満の庇護は、ただの寵愛では終わらなかった。武家の頂点に立つ将軍が後ろ盾につくということは、賤しい一座が、京の都の中心で芸を磨く場を得るということだった。河原の見世物が、最も洗練された美意識の只中へと引き上げられる。この出会いがなければ、大和の片隅の物まね芸は、能という総合芸術へ昇ることはなかったかもしれない。義満は、世阿弥という才能を育てる、最高の土壌だったのである。
「藤若」という名と、賤視という現実
義満の庇護のもとで、少年はもうひとつの宝を得る。教養である。
当代きっての教養人が、この少年に目をかけた。北朝で摂政・関白を務めた二条良基(にじょうよしもと)である。和歌、連歌、古典——あらゆる雅な学問に通じた、文化の頂点に立つ人物だった。摂関家のなかの摂関家、藤原氏の嫡流に生まれた、いわば公家社会の最高峰に立つ人物が、河原の芸の子に目をかける。それは、当時の身分の常識からすれば、ほとんどありえないことだった。
その二条良基という人を、もう少し見ておきたい。良基は、ただ高い位にあっただけの公家ではなかった。彼は、連歌という言葉の芸を、遊びから一個の文芸へと押し上げた、当代随一の文人だった。連歌とは、複数の者が和歌の上の句と下の句を継いでいく、座の文芸である。一人の心ではなく、座の者たちの心が、句から句へと飛び移っていく。その流れの美しさを律するために、良基は『応安新式』という連歌の規則を定め、『菟玖波集』という連歌の撰集を編んだ。連歌を、和歌と肩を並べる雅の道へと引き上げた立役者である。
その良基が、なぜ、賤しいと見下される猿楽の少年に、惜しみなく教養を注いだのか。
確かなことは分からない。良基自身が、その心のうちを書き残してはいない。だが、ひとつの符合がある。座の者たちの心が句から句へと飛び移る連歌の美しさを究めた人と、舞台で見物の心を一瞬で攫ってしまう少年。良基の目に、藤若の芸は、おそらく「言葉になっていない連歌」のように映ったのではないか。雅を解する者は、身分の貴賤を超えて、雅を解する者を見抜く。少なくとも良基は、河原の芸の子のなかに、自分と同じ「美を律する才」を見たのだった。
少年は、その良基のもとで連歌を学んだ。良基の美意識——「優にやさしき心」を尊ぶ感覚は、やがてこの少年が「幽玄」という芸の理想を磨くときの、深い土壌になっていく。そして、それだけではなかった。良基が少年に授けたものは、和歌や連歌の技法だけではない。「美とは何かを、言葉で考える」という、その作法そのものだった。のちに世阿弥が、誰も書かなかった芸の理論を書き起こすとき——その筆を動かす力の源のひとつは、まちがいなく、この公家との出会いにあった。賤しい役者が、芸を言葉にできた。それは、当代一の言葉の達人が、ひとりの少年に言葉の世界の扉を開いて見せたからである。
良基は、賤視された猿楽の少年の、その容姿と立ち居、蹴鞠や連歌の才を、惜しみなく賞賛したと伝えられる。そして、新たな名を与えた。鬼夜叉という荒々しい幼名を改めさせ、「藤若」と名づけたのである。藤の若。藤原氏の「藤」を冠した、雅やかな名だった。河原の芸能者の子に、公家がこのような名を与えることは、破格の遇し方だった。
だが、現実はそれほど甘くはなかった。
永和4年(1378年)、祇園会のときのことである。世阿弥は15歳ほどになっていた。将軍義満が、見物の桟敷に、この賤しい猿楽の少年を同席させた。酒や物を分け与えるほどに寵愛したという。
それを見た公家たちは、苦々しく思った。北朝の公卿・三条公忠(さんじょうきんただ)は、日記『後愚昧記』に、その世相を嘆かわしいものとして書き留めた。賤しい芸能者の児童を将軍が寵し、世の人々がこぞって贈り物をする——その有り様を、公忠は侮蔑をこめて記したとされる。
栄光と屈辱が、ひとりの少年のなかに同居していた。将軍に愛され、当代一流の公家に教養を注がれながら、その同じ社会から「賤しい」と見下される。この落差を、世阿弥は10代のうちに骨身に刻んだ。
後年、自らの幼少期を振り返るように、彼はこう書いた。若くして得る人気は、本物の花ではない。ただ年齢がもたらす一時の花にすぎぬ、と。美童としてもてはやされた自分の少年期を、彼は冷たいほど醒めた目で見つめ直すことになる。一時の花を本物と思い込む心こそ、かえって真実の花から遠ざかる——その峻烈な自己認識の種は、おそらくこの時期に蒔かれたのだった。
第2章 父を継ぐ——貴人も賤人も愛した芸
至徳元年(1384年)の初夏のことである。
父・観阿弥が、駿河の国——いまの静岡県——にいた。浅間神社で、法楽の能を舞っていた。すでに50を超えた老体である。だが、その舞台が、生涯最後の舞台となった。観阿弥は、旅先の駿河で客死する。享年52と伝わる。
旅の空の下での、突然の死であった。観世座の座長にして、当代並ぶ者なき名手。曲舞を取り込み、貴賤を一様に魅了した芸の革新者。その父が、もういない。
残された世阿弥は、21歳ほど。一座を背負う者として、二代目の大夫を継いだ。
老木に咲く花
父の死は、世阿弥に大きなものを遺した。芸そのものと、芸についての記憶である。
観阿弥は、晩年、不思議な境地に至っていた。若い演者に花を譲り、自らは芸を削ぎ落とし、何もしないような静かな能を舞うようになっていた。世阿弥は、その父の老境を、生涯忘れなかった。後に、彼はこう書いた。
この歳ごろになれば、おおかた、何もしないという以外に手立てはあるまい。麒麟も老いては駄馬に劣るというではないか。それでも、真に芸を究めた者であれば、演じ物の数はすべて失せ、見どころは少なくなっても、花だけは残るはずだ——。
老木に咲く、わずかな花。父・観阿弥が最後に示したその境地を、世阿弥は芸の理想のひとつとして胸に刻んだ。削ぎ落としても、なお残るもの。それこそが、本物の花だった。
そして、世阿弥は気づいていた。父の芸は、父の身体とともに、もう失われてしまった。あの大男が少女のごとく舞った物まねの妙も、貴賤を一様に泣かせた節も、二度と見ることはできない。芸とは、そういうものだった。演者が死ねば、消える。それが当たり前の世界だったのである。
継いだもの、変えていくもの
父の芸を継ぐとは、父の真似をすることではなかった。
世阿弥は、父の物まねの芸を受け継ぎながら、それを別のものへと動かし始めていた。大和猿楽は「物まね」を主軸とする。役柄に化け、似せる写実の芸である。鬼を演じれば鬼に、女を演じれば女に、見る者がそうと信じるほどに似せる。それが大和の芸の根だった。
だが、世阿弥が見ていたのは、もっと先だった。
彼は後に、物まねの究極について、驚くべきことを書く。物まねには、もはや似せようとしない高い段階がある。物まねを究め、その対象になりきってしまえば、似せようとする心はなくなる、と。
似せることを究めた果てに、似せる心が消える。鬼夜叉という名の少年が父の背中で見た「大男が少女になる」あの妙が、ここで言葉の入り口にさしかかっている。だがこのとき——20代の世阿弥は、まだそれを言葉にはしていない。彼はただ、舞台に立ち、稽古を重ね、父の芸を内側から作り変えようとしていた。
賤しい一座の、貴賤を一様に魅了した父の芸。それを継いだ若き大夫の前には、ふたつの道が見えていた。ひとつは、父の物まねをさらに磨くこと。もうひとつは——大和の物まねを超えて、もっと美しいもの、もっと幽玄なものへと、芸を昇らせること。
恩師・二条良基は、世阿弥が25歳ほどの嘉慶2年(1388年)に没した。連歌を、古典を、雅の心を注いでくれた人が、父に続いて去った。だが良基が植えた言葉の種は、世阿弥のなかで育ち続けていた。
物まねの父・観阿弥と、言葉の師・二条良基。このふたりを失った若き大夫は、両方を一身に背負って、芸の道を歩み始める。彼は、舞う者であり、やがて——書く者になる。
第3章 物まねから、亡霊の詩劇へ
世阿弥が30代に入った頃、世は北山文化の絢爛のただなかにあった。
明徳3年(1392年)、長く続いた南北朝の動乱が、ついに合一を見る。義満を中心とする時代が、その頂点へと昇っていく。京には金閣が建ち、武家と公家と禅の文化が溶け合う、華やかな時代だった。その光のなかで、観世座は隆盛を極めていた。
世阿弥は、芸を大きく動かしつつあった。大和の物まねを、より美しいものへ昇らせようとしていたのである。その手本となったのは——敵だった。
比叡の山に咲いた、もうひとつの花
犬王(いぬおう)という芸人について、語っておかねばならない。後に将軍義満の法名「道義」から一字を得て、道阿弥(どうあみ)と名乗ることになる、近江猿楽の名手である。
彼は、近江——いまの滋賀——を本拠とする比叡座という猿楽の座に属していた。大和の四座が興福寺と春日に仕えたように、近江の座は比叡山延暦寺や日吉社に仕えた。同じ猿楽でありながら、近江の芸は、大和とは別の美を磨いていた。大和が「物まね」の写実を究めたのに対し、近江は「幽玄」を——優美でたおやかな、夢のような美しさを——芸の目標に掲げた。犬王が舞う天女舞は、その近江の幽玄の極致と謳われ、当代に並ぶ者なき名手と称えられた。
世阿弥にとって、犬王は、好敵手だった。将軍の寵を競い、芸の高下を競う相手。観阿弥の死後、義満が最も高く評価したのは、世阿弥ではなく、この犬王だったとも伝わる。それを示す出来事が、のちに起きる——だが、それは後の章で語ろう。
注目すべきは、世阿弥が、この好敵手を、心から認めていたことである。後に次男・元能に語ったところでは——道阿弥の優美でたおやかな芸風は、天下随一であった、と。敵の芸を、天下一と言い切る。そこには、芸そのものへの、いっそ清々しいほどの正直さがあった。世阿弥は、嫉妬や対抗心で目を曇らせなかった。良いものは良い。美しいものは美しい。その澄んだ眼差しがあったからこそ、彼は次に、誰も思いつかぬことをやってのける。敵の芸を、奪うのである。
そして世阿弥は、ただ認めるだけではなかった。犬王の天女舞の優美を、大和猿楽のなかへ取り込んだのである。物まねを根に持ちながら、近江・田楽の幽玄を呑み込む。写実と幽玄を、一身に溶け合わせる。これが、世阿弥の芸の大きな跳躍だった。
大和の「似せる」芸と、近江の「美しい」芸。ふたつの源流が、世阿弥という一人の演者のなかで合流していった。物まね中心だった能は、彼の手のなかで、美しい歌と舞を中心とする芸へと洗練されていく。
夢幻能という詩劇
このとき世阿弥が大成したのが、後に「夢幻能」と呼ばれることになる形式である。今日、世界が「能」と聞いて思い描く、あの静謐で幻想的な舞台——亡霊が舞い、夜明けとともに消えていく詩劇の典型は、この形式から生まれた。能を能たらしめた、最も能らしい様式だと言ってよい。
夢幻能とは、こういう劇だ。旅の僧などが、ある土地を訪れる。そこに里の者が現れ、昔の物語を語る。やがてその里人が、実は、その物語の主人公の亡霊だったと明かされる。後段で、亡霊は本来の姿で現れ、生前の思いや死後の苦しみを、舞いながら語る。そして夜明けとともに、すべては夢のように消えていく。
主人公(シテ)は、生きた人間ではない。亡霊であり、神であり、草木の精である。彼らが現れ、舞い、心を語って、消える。能は、似せる写実の劇から、死者が現れて心を語る、抒情の詩劇へと跳んだのである。
その題材を、世阿弥は古典に求めた。『伊勢物語』『源氏物語』『平家物語』——由緒ある古典のなかから、心打つ人物を選び出す。後に彼は、能を書く方法を理論として書き残すとき、こう記した。由緒の正しい人物を題材に取り上げて、能にするのがよい、と。連歌の師・良基から浴びた古典の教養が、ここで生きた。賤しい役者が古典を知っていたからこそ、古典を素材に詩劇を編むことができたのである。
平家の武将たちを主人公にした一連の能——後に修羅物と呼ばれる——を、世阿弥はこの時期に手がけたとされる。『敦盛』『清経』『実盛』『忠度』『頼政』。一ノ谷で討たれた若き敦盛。入水した清経。老いてなお戦に出た実盛。彼らの亡霊が現れ、最期の修羅の苦しみを舞う。戦に死んだ者たちが、死後もなお戦の妄執に苦しみ、その救いを求めて現れる。物まねの笑いとは、まるで違う世界だった。
なかでも、世阿弥が後に最高位の作のひとつに数えたとされる一曲がある。『井筒』である。
『井筒』という到達
『井筒』は、『伊勢物語』を素材とした夢幻能である。
ある寺の跡を、旅の僧が訪れる。そこへ里の女が現れ、井筒——井戸の囲い——のかたわらで、昔の恋の物語を語る。在原業平とその妻の、幼なじみからの恋。やがて女は、自分こそがその妻、紀有常の娘の亡霊であると明かして消える。
後段、女は夫・業平の形見の装束をまとって現れる。男の衣を着た女が、舞う。そして、井筒の水を覗き込む。水鏡に映るのは、業平の装束をまとった自分の姿——だが、女はそこに、亡き夫の面影を見る。自分のなかに、愛した男を見る。
似せる、ということの究極が、ここにある。女が男を演じるのではない。女が、愛のあまり、男になる。物まねを極めて、その対象になりきってしまえば、似せようとする心はなくなる——若き日の世阿弥が書いたあの境地が、舞台の上で水鏡のひとつの像に結晶していた。
そして夜明けとともに、すべては消える。井筒も、女も、業平の面影も、夢のなかへと去っていく。
これが、世阿弥が大成した詩劇だった。物まねを根に持ち、幽玄を花とし、古典を骨格とし、亡霊の妄執と救いを主題とする。賤しいと侮られた猿楽が、ここまで来た。
だが——ここで立ち止まって考えてみたい。
この『井筒』の美しさは、舞台の上にしかなかった。一夜、演じられ、夜明けとともに消える。次の上演は、また別の一夜である。世阿弥がこの芸をどう生み出したのか、なぜ美しいのか、何を考えてこの形式に至ったのか——それは、彼の身体のなかにしかなかった。彼が死ねば、消える。父・観阿弥の芸がそうであったように。
頂点に立った演者が、やがて気づくことになる。この芸を、残さなければ。消えてしまう前に。
第4章 花を、文字に——『風姿花伝』の誕生
応永のはじめ、世阿弥は40歳に近づいていた。
芸の盛りである。彼自身が後に書くことになる——三十四、五歳ごろの能こそ、芸の盛りの極みである、と。その極みのただなかに、彼はいた。父の至芸を継ぎ、近江の幽玄を呑み込み、夢幻能を大成し、将軍の庇護のもとで第一人者の位に立っていた。望めるものは、ほとんど手に入れていた。
そのとき、世阿弥は、誰もしなかったことをした。
机に向かい、筆を執ったのである。芸を、書こうとした。
書いてはならないものを書く
これが、いかに常軌を逸したことだったか。
猿楽は、口伝の世界だった。芸は師から弟子へ、口移しに伝えられた。型も、心得も、舞の美しさの正体も、文字にはされなかった。とりわけ、芸の最も奥にある秘事は、口伝のなかの口伝であり、決して書き残してはならぬものとされた。書けば、漏れる。漏れれば、秘事ではなくなる。秘事でなくなれば、芸の力が失われる——そう信じられていた。
そもそも、芸を書くための言葉が、なかった。花とは何か。幽玄とは何か。なぜ人は舞に心を動かされるのか。それを「考える」ための概念が、まだこの世になかったのである。
世阿弥は、それを書こうとしていた。
なぜか。理由のひとつは、はっきりしている。父である。観阿弥が遺した芸の教えを、世阿弥は頭のなかだけに留めておきたくなかった。あの貴賤を一様に魅了した芸が、父の死とともに半ば失われてしまった痛みを、彼は知っていた。書き残さなければ、また失われる。息子たちへ、そしてこの「道」のために、遺さねばならない。
書物の冒頭に、彼はこう記す。猿楽という、人の寿命を延ばすほどの芸の営みは、その源をたずねれば、仏の在所から起こり、神代から伝わるという——。賤しい見世物とされた芸を、彼は神と仏にまで遡る、由緒ある「道」として書き起こした。賤視された河原の芸を、彼は自らの筆で、思想の高みへ引き上げようとしていたのである。
そして彼には、それを書く力があった。少年期に二条良基から浴びた、連歌と古典の教養。言葉の世界を知る役者。これほど稀な取り合わせはなかった。頂点を知る実演者でありながら、芸を言葉にできる教養を持つ。だからこそ、彼にだけ、それが書けた。
「年来稽古条々」——芸を、生涯の道として
書物は、奇妙なところから始まった。年齢である。
第一篇「年来稽古条々」で、世阿弥は、7歳から50歳過ぎまで、人が芸とどう向き合うべきかを、年齢を追って説いていく。
7歳。この芸は、おおむね7歳をもって稽古の始めとする。ただし幼子には自然のままにさせ、強く叱るな。子どもには、子どもにしかない一時の花がある。
17、18歳。声変わりし、容姿の幼い花が散る、最も苦しい時期。第一の花は失せている。人に笑われても、芸を捨てず、稽古を続けよ。
24、25歳。声も身体も盛りで、世間がもてはやす。だが世阿弥は、若き日の自分を突き放して書く。この花は、本物の花ではない。ただ年齢がもたらす一時の花にすぎない、と。15歳の祇園会で味わった、美童としての栄光。それを、彼はここで「時分の花」と名づけ、本物ではないと斬って捨てた。
34、35歳。芸の盛りの極み。
そして、44、45歳から先は、芸のやり方を変えよ、と説く。たとえ天下に認められ、芸を究めていたとしても、だからこそ、良い脇役の名手を抱えておくべきだ。老いを見据え、若い者に花を譲ることを、彼はすでに書いている。
ここで世阿弥がしていたことは、革命的だった。芸を、「いつか完成する技」としてではなく、「生涯をかけて変わり続ける道」として捉え直したのである。芸の評価軸を、「うまいか下手か」から、「その年齢、その段階にふさわしい花が咲いているか」へと、移した。芸が、時間のなかを生きるものになった。
別紙口伝——「秘すれば花」
書き継がれていく『風姿花伝』の最も奥に、世阿弥は、最後の秘事を置いた。
第七篇「別紙口伝」。最も秘すべき口伝を集めた、伝書の心臓部である。ここで世阿弥は、いよいよ「花」とは何かを、書こうとしていた。
これは、矛盾だった。
花とは、芸の最奥の秘事である。秘事は、書いてはならない。書けば、秘事でなくなる。だが世阿弥は、その秘事を——書こうとしていた。書いてはならぬものを、書こうとしていた。彼は、その矛盾の真正面に立っていた。
それでも、筆が進む。
まず彼は、花の正体を書いた。花と、面白さと、めずらしさと、この三つは同じ一つの心である、と。花とは、固定した型ではない。観客の心が「めずらしい」と動く、その新鮮な意外性のことだ。だから、能も一つの所に留まってはならない。同じ芸を繰り返せば飽きられる。別の芸風へ移っていけば、それが新鮮さになる——留まらないことを、まず花と知るべきだ、と彼は書いた。
そして、核心へ。彼は筆を進め、こう記す。
秘する花を知ること。秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず、となり。この分け目を知ること、肝要の花なり——。
秘めるからこそ、花になる。秘めなければ、花にはならない。
世阿弥は、ここで何を言っているのか。彼は続けて、その理屈を解き明かす。あらゆる道や芸において、それぞれの家が「秘事」と称するものは、秘するがゆえに大きな効用があるのだ。だから秘事を明かしてしまえば、なんということもないものなのだ、と。
種を明かせば、たいしたことはない。だが、観客が「これは秘められた何かだ」と感じる、その予想を裏切る一瞬にこそ、芸の効果が宿る。意外性こそが、人の心を動かす。だから演者は、何を見せ、何を隠すかを知らねばならない。隠すという技術そのものが、花を生む——これが、世阿弥が書いた、能の幽玄そのものを一句で言い切った思想だった。
ここに、二重の、目のくらむような逆説がある。
世阿弥は、「秘すれば花」という秘事を、いま、文字にして書き残している。秘めるべきものを、秘めよ、と書くことで、残そうとしている。書いてはならぬ秘事を、書くことによって、永遠に伝えようとしている。隠せ、という教えだけは、隠さずに。
舞台の上で、一夜のうちに咲いて消えるはずだった「花」。父・観阿弥の身体とともに失われ、世阿弥自身の身体とともに、いつか失われるはずだった、あの消えゆく芸の美。それを、彼はいま、紙の上に閉じ込めた。
消える芸が、残る思想になった瞬間だった。
筆を擱いたとき、世阿弥は何を思っただろうか。それは、分からない。本人は、その心境を書き残していない。だが、彼がしたことの意味は、揺るがない。賤しいと侮られた河原の芸の子が、芸を考えるための言葉を、この世に生み出した。舞は消える。だが、舞についての思想は、消えない。
『風姿花伝』の最初の三篇が成ったのは、応永7年(1402年)頃。世阿弥、39歳前後と伝わる。残りの篇は、その後20年ほどかけて書き継がれ、改訂されていく。だが、芸を文字にするという、誰もしなかった営みは、このときに始まった。この一冊は、のちに能楽の聖典として読み継がれ、近代以後は演劇論・芸術論の古典として、洋の東西を問わず参照されることになる。だが、それを書いた当の世阿弥は、自分の言葉がそれほどの時を旅することを、知るよしもなかった。
そして彼は、この一冊だけでは終わらなかった。ここから30年以上、彼は書き続ける。生涯で20を超える伝書を、書き継ぐことになる。芸論であり、稽古論であり、能の作り方であり、芸の哲学である。日本で——いや世界を見渡しても稀な——最初級の、体系的な芸の理論が、こうして生まれた。
役者は、もはや舞うだけの者ではなくなった。考え、書き、教える者になった。芸は、演者の死とともに消えるものではなくなった。読め、語れ、分析でき、何百年も受け継げる「知」になったのである。
第5章 離見の見——芸の頂で書き継ぐ
跳躍のあとも、世阿弥の筆は止まらなかった。
だが、彼を取り巻く光景は、静かに翳り始めていた。
応永15年(1408年)、世阿弥は45歳ほどになっていた。この年、後小松天皇が、義満の北山第——金閣のある邸——へ行幸した。義満の権勢の、まさに頂点を示す出来事である。その晴れの舞台で猿楽を演じたのは、世阿弥ではなく、近江猿楽の犬王、すなわち道阿弥だった。
そして同じ年、足利義満が没した。
世阿弥を賤しい河原の芸から頂へと引き上げた、最大の庇護者。12歳の今熊野以来、30年以上にわたって観世座を支えた光源が、消えた。
四代将軍となった義持(よしもち)は、世阿弥よりも、田楽の名手・増阿弥(ぞうあみ)を好んだ。将軍の寵が、別の芸人へと移っていく。芸の世界は、権力の趣味に揺さぶられる世界である。将軍の代替わりは、そのまま芸人の浮沈を左右した。
それでも、世阿弥は書いた。いや、寵が遠ざかるほどに、彼の芸論はかえって深まっていった。舞台で将軍を喜ばせることから、芸そのものの真理を究め、書き残すことへ。彼の重心は、静かに移っていったのである。
至花道、そして体系へ
応永27年(1420年)頃、世阿弥57歳ほど。『至花道』を著す。
ここで彼は、芸を分析し、体系化しようとした。芸の根幹を、二曲——舞と歌——と、三体——老体・女体・軍体——に整理した。舞と歌、この二つの芸は、芸達者に生まれつき備わるべき根本である、と彼は書く。そして、老人を演じる、女を演じる、武人を演じる、この三つの基本の型。芸という、つかみどころのないものを、世阿弥は概念の格子のなかへ収めていった。
翌応永28年(1421年)には、その二曲三体を図解した『二曲三体人形図』を著す。芸を、絵にまでして示そうとした。
体と用、という哲学的な対も論じた。体は花そのもの、用はその花の匂いのようなものである、と。本質と、その現れ。芸論は、もはや単なる稽古の心得を超えて、世界の見方そのものへと深まっていた。
出家、そして肉声の記録
応永29年(1422年)、世阿弥は59歳ほどで出家した。大夫の地位を、長男・観世元雅(かんぜもとまさ)に譲ったのである。
舞台の第一線からは退く。だが、芸への向き合いは、いっそう深まった。
この年、もうひとつ重要なことが起きる。次男・観世元能が、父の芸談を筆記し始めたのである。後に『申楽談儀』——正しくは『世子六十以後申楽談儀』——と呼ばれる聞書である。「世子六十以後」、すなわち世阿弥が60歳を過ぎてからの、芸の談話。父・観阿弥の芸のこと、近江や田楽の他座の評、芸の歴史——世阿弥が口で語ったことを、息子・元能が書き留めた。
これは、伝書とはまた違う、生々しい肉声の記録だった。世阿弥自身が筆を執った伝書が「書かれた思想」だとすれば、『申楽談儀』は「語られた記憶」である。父が大男ながら少女のごとく舞ったこと。犬王の優美が天下一だったこと。これらの貴重な証言は、すべて元能の筆を通して、今日まで伝わった。世阿弥は、自ら書くだけでなく、語ることでも、芸を残そうとしていた。
「離見の見」と「初心忘るべからず」
応永31年(1424年)、世阿弥61歳ほど。彼は『花鏡』に奥書を入れ、長男・元雅に相伝した。世阿弥の芸論の到達点とされる書である。
ここで彼は、二つの、後世に最も知られることになる思想を説いた。
ひとつは、「離見の見」。
演者は、自分の舞う姿を、自分の目では見られない。とりわけ、自分の後ろ姿は、決して見えない。だが世阿弥は、それを見よ、と要求する。我が身を離れ、観客の席から見る目で、自分を見よ。観客と同じ心で見た自分の姿——それが「離見」である。それに対して、自分の目で見ているものは「我見」にすぎない、と。
そして、峻烈な一句。目は前を見つつ、心は背後に置け——「目前心後」。演者は、自分自身を、容赦なく客観視せねばならない。自分の見えない後ろ姿までも、観客の目でつかみ取れ。そうして初めて、姿の全体が花になる。これは、芸における徹底した自己客観視の思想だった。
もうひとつは、「初心忘るべからず」。
これは、世阿弥の言葉のなかで最も有名であり、そして最も誤解されている言葉である。
『花鏡』の奥を、彼はこう締めくくった。わが流派には、すべての芸を貫くただ一つの究極の言葉がある。「初心忘るべからず」がそれだ。この句には三つの口伝がある——是非の初心を忘れるな。その時々の初心を忘れるな。老後の初心を忘れるな。
ここで「初心」とは、「最初に抱いた志」のことではない。「初志貫徹」の意味ではないのである。世阿弥の言う「初心」とは、各段階の、未熟だった頃の自分のことだ。若い頃の未熟な芸を、忘れずに身に持ち続けていれば、老後になってさまざまな益がある、と彼は書く。
若き日の下手だった自分。声変わりに苦しんだ17、18歳の自分。それを覚えておけ。それが、今の自分の到達を測る物差しになる。そして、老いには老いの「初心」がある——老いて初めて出会う未熟さを、忘れるな。
人は、生涯にわたって、いくつもの「初めて」に出会う。そのすべてを物差しとして持ち続けよ。これは、芸を生涯発達の営みとして捉えた、世阿弥の根本思想だった。「年来稽古条々」で年齢ごとの花を説いた男が、ここで、すべての段階を貫く一句にたどり着いた。
彼は、芸に終わりはない、と信じていた。命には終わりがある。だが芸の道には、果てというものがあってはならない、と書いた男である。そして上手にも悪いところがあり、下手にも良いところが必ずある、と。芸に「完成」はない。だから稽古は、命ある限り続く。
60歳を過ぎ、出家し、将軍の寵から遠ざかりながら、世阿弥は芸の最も深いところを言葉にし続けた。彼が若き日に大成した夢幻能という身体の芸は、いまや、離見の見という思想に、初心という哲学に、二曲三体という体系に、姿を変えていた。消える芸は、残る言葉になり続けていた。
だが、彼の足元は、もう崩れ始めていた。
第6章 寵が去る——甥の台頭、そして長男の死
正長元年(1428年)、世阿弥は65歳ほどになっていた。
新しい将軍が立った。六代将軍・足利義教(あしかがよしのり)である。そして義教が好んだのは、世阿弥でも、その長男・元雅でもなかった。世阿弥の甥にあたる、音阿弥(おんあみ)——観世元重(かんぜもとしげ)だった。
血縁のなかの、競合だった。
音阿弥は、観世座のれっきとした名手であり、悪人ではない。後に観世流の本流を継ぐことになる人物である。だが、義教の絶大な後援を背に、彼は台頭していった。そしてそのぶん、世阿弥と、その実子・元雅の系統は、能の世界で押し出されていった。将軍の寵が誰に向くかで、芸人の運命は決まる。その非情な世界のなかで、世阿弥一家は、しだいに隅へと追いやられていく。
血筋の外へ、奥義を託す
世阿弥は、ひとつの選択をした。
この年、彼は『拾玉得花』と『六義』という二つの伝書を、娘婿の金春禅竹(こんぱるぜんちく)に相伝した。
禅竹は、世阿弥の娘の夫であり、金春座を率いる若き大夫だった。世阿弥は、芸の奥義を、自分の血を継ぐ息子だけでなく、娘婿という血筋の外の者にも託したのである。
なぜか。長男・元雅には、すでに『花鏡』を相伝していた。だが、元雅の系統は、音阿弥に押されて先行きが見えなくなりつつあった。世阿弥は、自らが言葉にした芸の伝統を、ひとつの家に閉じ込めて消えさせるわけにはいかなかった。残すために、託す先を広げる。それは、芸を文字にした男の、当然の延長だった。芸は、もはや一座の身体に閉じたものではなかった。受け継げる「知」だったからこそ、血の外へも渡せたのである。
『拾玉得花』のなかで、世阿弥は、芸の最高位を「無文の能」に見た。飾りを削ぎ落とした、無文の能こそ、第一級の能である、と。父・観阿弥が老境で示した、何もしないような静かな能。あの「老木の花」の思想が、晩年の世阿弥のなかで、いっそう澄んだ境地へと深まっていた。
禅竹は、この恩義を生涯忘れなかった。後に世阿弥が佐渡へ流されたとき、京に残された妻の面倒をみ、島へ物を送ったのも、この娘婿だったと伝えられる。世阿弥が芸の伝統を託したその相手が、最も苦しいときに、彼を支えることになる。
地位の喪失
そして、転落が始まる。
永享元年(1429年)、世阿弥66歳ほど。義教の意向により、仙洞御所——上皇の御所——への出仕を停止された。御所で芸を披露する道を、断たれたのである。
翌永享2年(1430年)、67歳ほど。醍醐寺清滝宮の楽頭職を罷免された。楽頭職とは、寺社の神事能を統べる地位であり、暮らしの基盤でもあった。これを失うとは、地位も、名声も、演能の場も、生活の糧も、まとめて奪われることを意味した。
12歳で将軍に見出された男が、67歳で、芸の世界から締め出されようとしていた。
なぜ、義教がここまで世阿弥を遠ざけたのか。その動機を明確に記す一次の史料は、伝わっていない。甥・音阿弥を引き立てるためか。世阿弥の何かが義教の不興を買ったのか。憶測は多いが、確かなことは分からない。分かっているのは、地位が、ひとつずつ、奪われていったという事実だけである。
長男・元雅の死
だが、世阿弥の人生で最も深い傷は、地位の喪失ではなかった。
永享4年(1432年)、世阿弥69歳ほど。長男・観世元雅が、伊勢の安濃津——いまの津——で客死した。
元雅は、世阿弥が芸を託した、本命の後継者だった。『隅田川』のような、子を失った母の狂乱を描く、悲劇性の深い名作を残した名手である。父の幽玄を、さらに人間の悲哀へと深めた、稀有な才能だった。
その元雅が、旅先で、突然に死んだ。何者かに刺されたという暗殺説もあるが、死の事情は分からない。父より先に、逝ってしまった。
老いの底で、最も恃んだ息子に先立たれた世阿弥は、その死を悼んで『夢跡一紙』という文を記した。世阿弥の伝書のなかで、最も私的で、最も痛切な肉声だった。
彼は、わが子をこう悼んだ。我が子ながら、たぐいなき達人であった。祖父——観阿弥——をも越える、芸の名手だった、と。
父・観阿弥を越える。それは、世阿弥にとって最大級の賛辞だった。その息子を、失った。
文の奥に、彼は一首の歌を書き添えた。
いくほどと思はざりせば老いの身の 涙のはてをいかで知らまし——
これほど早く子を失うと思わなかったならば、老いた我が身が流すこの涙の果てを、どうして知ることがあっただろうか。
芸を言葉にし続けた男が、ここで、自らの悲しみそのものを言葉にした。芸論の冷徹な分析者ではなく、ひとりの、子に先立たれた老父が、そこにいた。地位を奪われ、後継者を喪い、彼はもう、すべてを失おうとしていた。
そして、最後の打撃が、彼を待っていた。
第7章 流謫——奪われて、なお書く
永享6年(1434年)。世阿弥は、71歳ほどになっていた。
その老身に、最後の処分が下る。佐渡への流罪である。
なぜ、70歳を超えた老人が、はるか北の島へ流されねばならなかったのか。その理由を記す一次の史料は、まったく伝わっていない。義教の怒りに触れたことは確からしい、というところまでしか、分かっていない。地位を奪い、暮らしを奪い、それでもなお足りないかのように、最後に、自由が奪われた。
冒頭で見た光景に、物語はようやく追いついた。京を遠く離れ、峠を越え、荒れた海を渡って、世阿弥は佐渡に着いた。波風の激しい、北海の島である。
すべてを失っていた。最大の庇護者・義満は、とうに世を去った。芸の地位も、楽頭職も、奪われた。後を継ぐはずだった長男・元雅は、もういない。京には妻が残されたが、共にはいられない。
流謫の地で、なお筆を執る
それでも、世阿弥は書いた。
配流から2年後の永享8年(1436年)、73歳ほど。彼は『金島書』を著す。佐渡の島のありさま、配所での月日、流謫の身の境涯を綴った、小さな謡の書である。
驚くべきは、その筆致だった。罪を得て島に流された老人の文でありながら、そこに溢れているのは、嘆きや恨みではない。むしろ、澄みきった諦観だった。北の海に浮かぶ島だから、波も風も激しい——彼は、目の前の島の自然を、静かに見つめ、書きつけた。配所の孤独を、澄明な抒情へと昇華させた、晩年の到達である。
ここに、世阿弥という人間の核がある。
舞台で消えるはずの「花」を、紙に残した男。その生涯の終わりに、すべてを奪われてなお、彼が手放さなかったものは、やはり、書くことだった。地位も、後継者も、自由も奪える。だが、芸を言葉にする営みだけは、誰にも奪えなかった。流謫の島でも、彼は書く者であり続けた。
おそらく配流の前後、すべてを失いつつあった時期に書かれたとされる伝書に、『却来華』がある。「却来」とは、高い位を究めた者が、再び初めの位へと立ち返り、そこから新たに芸を生かすこと——と、世阿弥は説いたとされる。一度きわめた高みから、また初心の地へと却り来る。老いてなお、芸を問い直す。それは、「初心忘るべからず」を、自らの生き方で生き抜く姿だった。
自らの理論を、生身で超えた男
ここで、ひとつの逆説に目を留めたい。
若き日の世阿弥は、『風姿花伝』に書いた。三十四、五歳が芸の盛りの極み。四十四、五歳からは下り坂——と。芸の頂点を、彼は40歳前後に置いた。
ところが、その筆者自身は、その理論をはるかに超えて生きた。
40歳が盛りと書いた男が、80年生きた。盛りの倍の歳月を、彼は生きてしまった。そしてその後半生こそが——50歳を過ぎてから配流まで——彼に20を超える伝書を書かせ、「離見の見」を、「初心忘るべからず」を、生み出させた。下り坂と自ら書いた歳月のなかで、彼は最も深い思想に到達したのである。
そして、71歳で島に流され、73歳でなお書いた。彼は、自分の立てた理論を、自分の生身で裏切り、超え、更新し続けた。芸に果てはない——その信念を、彼は81年の生涯そのもので証明したのだった。
失われた最期
この後の世阿弥が、どうなったのか。確かなことは、分からない。
永享13年(1441年)、世阿弥78歳ほどのとき、将軍・義教が暗殺された。嘉吉の乱である。世阿弥を島へ追いやった権力者が、自らも非業の死を遂げた。
この義教の死の後、世阿弥は赦免され、京へ帰ったとする説がある。一方で、佐渡でそのまま没したとする説もある。どちらが正しいのか、決め手はない。
没年は、嘉吉3年(1443年)8月8日、享年81と伝わる。だがそれも、後代の観世家系に残る画像賛や、補巌寺の忌日伝承からの推定であり、生没年とも確証はない。妻とともに補巌寺に帰依し、至翁善芳という法名を得たとも伝えられる。だが、いつ、どこで、どのように息を引き取ったのか——芸をあれほど克明に言葉にした男の、その最期だけは、言葉にされないまま、霧のなかに消えている。
12歳で将軍に見出され、71歳で島に流された。世阿弥は、義満・義持・義教と、移りゆく四代の将軍の時代を生き抜き、賤しい河原の芸を思想の高みへ引き上げ、そして、すべてを奪われて、どこかで静かに世を去った。
身体は消えた。彼が大成した夢幻能の舞も、彼自身の演技も、二度と見ることはできない。父・観阿弥の芸がそうであったように。
だが、彼が紙に閉じ込めた言葉だけは——残った。
エピローグ 秘すれば花——五百年後に、花がひらく
世阿弥の言葉は、それから、長い眠りについた。
彼が命がけで書き残した伝書は、皮肉なことに、彼自身が説いた通りに「秘された」。一子相伝の秘伝として、観世の家に、あるいは限られた人々の手に、固く伏せられたのである。書いてはならぬ秘事を、彼は書いた。だがその書もまた、秘事として扱われ、世に出ることはなかった。
世阿弥の名は忘れられはしなかった。だが、彼が何を考え、何を書いたのかは、誰も知らなかった。『風姿花伝』も、『花鏡』も、世間の目に触れることはなかった。役者が遺した、芸の思想。それは、紙の上に閉じ込められたまま、五百年ものあいだ、誰にも読まれずに眠り続けた。
そして、明治の世になった。
古書肆の棚から甦った、五百年の声
明治41年(1908年)の夏のことである。東京・下谷の古書肆、朝倉屋の棚に、古びた一群の写本があった。
それを買い求めたのは、安田善之助(やすだぜんのすけ)という若者だった。のちに二代目・安田善次郎を襲名する、財界の家に連なる人である。彼は能楽の伝書を熱心に集めていた。手に入れた写本が、世阿弥の能楽論であることに、彼は気づいていただろうか。いずれにせよ、五百年のあいだ秘伝として伏せられてきた世阿弥の言葉は、このとき、巷の古本屋の棚から、ひとりの好事家の手に渡ったのだった。
その話を聞きつけた人物がいた。吉田東伍(よしだとうご)である。
吉田は、歴史地理学者だった。能楽の専門家ではない。だが、彼は独学で日本中の地名の来歴を調べ上げ、『大日本地名辞書』という途方もない大著を、ほとんど独力で書き上げた、稀代の実証家だった。その彼が、安田の手にある世阿弥の写本の価値を、即座に見抜いた。彼は写本を借り受け、ただちに翻刻と校訂にとりかかった。
そして明治42年(1909年)2月、吉田東伍の校注により、『世阿弥十六部集』が刊行された。世阿弥が筆を擱いてから、およそ五百年。秘伝として、観世の家に、あるいは限られた人々の手に固く伏せられ、誰にも読まれずに眠り続けていた言葉が——ある古書肆の棚を経て、ついに、世に放たれたのである。賤しいと侮られた一人の役者の思想が、近代日本の前に、初めてその全貌を現した瞬間だった。
そのとき、人々は驚いた。
五百年前の、賤しいと見下されていた一人の役者が、芸とは何か、花とは何か、人はなぜ舞に心を動かされるのかを、これほど深く、これほど体系的に書き残していた。それは、日本最古級の——いや、世界を見渡しても稀な——体系的な演劇論・芸術論だった。世阿弥は、近代になって、「日本演劇論の祖」として甦ったのである。
ここに、世阿弥の生涯を貫く、ひとつの予言が成就している。
彼が世に持っていたものは、すべて失われた。最大の庇護者・義満は彼より先に世を去り、長男・元雅は客死し、芸の地位も、楽頭職も、奪われた。彼を島へ追いやった義教さえ、暗殺された。彼自身の最期は、いつどこでとも分からぬまま霧に消えた。直系の血さえ、観世の本流は甥・音阿弥の系統が継いだ。彼がこの世で握っていたものは、何ひとつ、残らなかった。
だが、紙に託した言葉だけが、五百年の時を超えて、甦った。
舞は消える。身体の芸は、演者の死とともに失われる。それが、世阿弥の生きた世界の摂理だった。父の芸も、彼自身の芸も、その摂理に従って、消えた。
ただ、言葉だけが、その摂理に逆らった。
「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」——彼は、消えゆく花を、秘事として書き残すという矛盾を犯した。秘めるべきものを、秘めるべきだと書くことで、永遠に伝えた。そして、その書物は、まさに彼の言葉通り、五百年のあいだ「秘され」、伏せられたまま眠り、ある日、ひらいた。
秘されていた花が、時を超えて、ひらいた。
「秘すれば花」は、彼の芸論の核であると同時に、彼自身の生涯の予言だった。すべてを失い、最期さえ闇に消えた男が、たった一つ、紙に閉じ込めた言葉によって、何百年も生き続ける。消える身体の芸を、残る思想に変えてしまった——その一点において、世阿弥は、世界の何かを決定的に変えた。
彼は、自らこう書いていた。命には終わりがある。だが芸の道には、果てというものがあってはならない、と^081。
世阿弥の命は、六百年近く前に終わった。だが彼が言葉にした芸の道には、いまも、果てがない。
今日、能の舞台で『井筒』が演じられるとき、女が井筒の水を覗き込み、そこに亡き夫の面影を見るとき——その美しさの正体を、私たちは、世阿弥自身の言葉で読むことができる。なぜ人は、舞に心を動かされるのか。世阿弥は、それを書いた。書いてはならないと言われたものを、書いた。
あなたが舞台の闇のなかで息を呑むその一瞬、五百年前に島で死んだ老人の言葉が、まだ、生きている。
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